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総理退任後 [編集]
1979年(昭和54年)、大平政権下では反主流と化して40日抗争、ハプニング解散で再び田中・大平主流派と対立した。その後も度々総裁候補として浮上し、自民党の実力者であり続けた。また、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「OBサミット」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「昭和の黄門」を自認した。後に総理大臣になる森喜朗や小泉純一郎は彼の教えを受けた[3]。1984年(昭和59年)に二階堂擁立構想をきっかけに発言力が低下し、福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たため1986年(昭和61年)に派閥を安倍晋太郎に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった田中龍夫が引退を決意したとされている。 リクルート事件によって竹下内閣が崩壊した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きが、また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、何れも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。 1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙を機に政界引退。長男康夫が後継者となるが、当初は次男の征夫を後継者として考えていたため、病気に倒れるまでは「康夫は面の皮が薄すぎて政治家に向かない」と周囲に語っていた。引退するまで連続14回当選。同じ選挙区である旧群馬3区では「上州戦争」と呼ばれるほど中曽根康弘と激しいトップ当選争いを繰り広げたが、毎回福田が圧勝。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の11勝3敗)。1995年(平成7年)7月5日、肺気腫で死去。90歳没。 年譜 [編集] 1978年6月16日、第4回先進国首脳会議参加首脳とともに(左から1人目) 1945年(昭和20年)9月 - 大蔵省官房長[4]。 1946年(昭和21年)7月 - 銀行局長。 1947年(昭和22年)9月 - 主計局長。 1948年(昭和23年)9月 - 昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される[5]。 1950年(昭和25年)11月 - 退官。 1952年(昭和27年)10月 - 無所属で立候補し衆議院議員に初当選。 1958年(昭和33年) 6月 - 政調会長。 11月 - 昭電事件につき東京高裁が無罪判決(確定)。 1959年(昭和34年) 1月 - 幹事長。 6月 - 農林大臣に就任。 1960年(昭和35年)12月 - 政調会長。 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣に就任。 1967年(昭和42年)2月 - 幹事長(二度目)。 1968年(昭和43年)11月 - 大蔵大臣に就任。 1971年(昭和46年)7月 - 外務大臣に就任。 1972年(昭和47年)7月 - 自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。 1973年(昭和48年)11月 - 大蔵大臣に就任。 1974年(昭和49年)12月 - 副総理・経済企画庁長官に就任。 1976年(昭和51年)12月 - 第67代内閣総理大臣に就任。 1978年(昭和53年)12月 - 内閣総理大臣を辞任。 1979年(昭和54年)1月 - 新派閥清和会旗揚げし赤坂プリンスホテルに事務局を置く。 1986年(昭和61年)7月 - 派閥を安倍晋太郎に譲り、福田派会長を辞任。 1990年(平成2年)2月 - 政界を引退。 1995年(平成7年)7月5日 - 慢性肺気腫のため死去 90歳没。 政見・政策 [編集] PR |
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