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【2024/10/06 09:37 】 |
├─≠ョ─ヵラスと小宮悦子
├─≠ョ─ヵラス 『ニュースステーション』
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 『クレヨンしんちゃん』では、野原しんのすけが小宮に好意を抱いており、何度か登場している。
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【2010/12/02 22:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと徳元幸人
├─≠ョ─ヵラス 沖縄県
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 実兄の影響で、恩納小4年 (恩納クラブ) よりバレーボールを始める。
【2010/11/30 21:26 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと大谷佐知子
├─≠ョ─ヵラス パイオニア
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 中学2年の時にバレーボールを始め、中学3年の時に全日本入りをする。
【2010/11/29 18:21 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
渡辺正
渡辺 正(わたなべ まさし、1936年1月11日 - 1995年)は、日本の元サッカー選手、および指導者。選手時代のポジションはフォワード。サッカー日本代表選手として出場したメキシコシティオリンピックでは、今で言うスーパーサブ役を担い、銅メダル獲得に貢献した。晩年は日本代表監督も務めた。広島県広島市出身。
目次 [非表示]
1 来歴
2 逸話
3 所属クラブ
4 個人成績
5 代表歴
5.1 出場大会
5.2 試合数
5.3 得点数
6 指導経歴
7 監督成績
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
来歴 [編集]

実家は寺。子供の頃、原爆で焼け野原になった町で、壊れた墓石運びの手伝いをさせられ、これが足腰の鍛錬になったという。広島市立基町高等学校から、同郷の名将・寺西忠成が監督を務めていた八幡製鉄サッカー部(後の新日本製鐵八幡)に入部した。当時の八幡製鉄は広島出身者が多数を占め、荒っぽい広島弁が飛び交う「野武士軍団」だったが、中でも渡辺の個性は出色で、酒豪で連夜ネオン街に繰り出し、泥靴で寝床に入ることもしばしばだったと言う。また負けず嫌いな性格から一度八幡製鉄を辞め、1958年に立教大学に進学。卒業後の1962年に再び八幡製鉄に入った。1960年前後の八幡の黄金期に中心選手として活躍。その熱血漢振りから「闘将」と呼ばれた。
1960年、ローマオリンピック予選から全日本に選ばれる。1964年、東京オリンピック、1968年、メキシコシティオリンピック連続出場。メキシコでは、松本育夫と右ウイングの位置を分け合い、右サイドを高速で駆け上がりゴールを奪った。この大会6試合、日本の9得点のうち7得点が釜本で、あとの2得点は渡辺が挙げたものである。特に1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、1点リードされ敗色濃厚の後半終了間近に投入されると、杉山隆一の左からのクロスを釜本邦茂が相手選手3人に競り勝って頭で折り返し、ゴール前に詰めた渡辺がダイレクトボレーで決めた。この同点弾がなければ、銅メダルもなかった。異常な才能、或いはカンで、はるかに前からボールの落ち所を正確に予想し、渡辺に魅せられているかのように目の前にボールが落ちてきたという。代表通算39試合出場、Aマッチ通算12得点は歴代13位の記録。
晩年はプレーの切れ味こそ衰えたものの、ゴールへの執念はなお健在で、ゴール前のスペシャリストと呼ばれた。
1969年には八幡製鉄のプレイングマネージャーとなり、選手引退後も1975年まで監督を続けた。また1973年からは日本代表ユースコーチを兼ね、1977年、日本代表コーチ、1980年、日本代表監督を歴任し、木村和司、風間八宏、田嶋幸三、西村昭宏など若き才能を多く抜擢した。
しかし代表監督就任から5ヶ月でクモ膜下出血で倒れ、左半身不随となる。代表監督が任期中に倒れたのは渡辺とオシムだけ。この時は急遽、川淵三郎が後任となった。懸命なリハビリの末、半年後には新日鐵東京本社で業務に復帰するまで回復した。1984年、母校・立教大学サッカー部の監督に就任。1987年からは日本サッカー協会へ出向した。
1995年没。2006年、日本サッカー殿堂入り。
逸話 [編集]

代表時代に「そうじゃけんのう」という広島弁をやたら使うので、デットマール・クラマーが覚え、ミーティングの時に選手が緊張すると、クラマーはしばしばこの言葉を使いみんなを笑わせた。
明治大学在学中の木村和司を日本代表の右ウイングに抜擢した。木村は非常にコントロールの難しい選手で練習嫌い、わがままという評判があり、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日鐵入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産自動車に入部した[1]。このことはその後の日本リーグの勢力地図を大きく変えたといわれている。
気性の激しい選手として知られたが、松本育夫がヤマハの「つま恋ガス爆発事故」で瀕死の重傷を負い長期入院を強いられたときには、仕事の帰りに毎日見舞いに行き松本を励ました。
所属クラブ [編集]

1953年 - 1958年:八幡製鉄
1958年 - 1962年:立教大学
1962年 - 1971年:八幡製鉄 通算79試合出場 19得点
個人成績 [編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 八幡 JSL -
1966 八幡 JSL -
1967 八幡 JSL -
1968 八幡 JSL -
1969 八幡 JSL -
1970 八幡 JSL -
1971 八幡 JSL -
通算 日本 JSL 79 19 -
総通算 79 19 -
代表歴 [編集]

出場大会 [編集]
ローマオリンピック予選
1962年 ワールドカップチリ大会予選
アジア競技大会(1962,1966)
東京オリンピック(ベスト8)
メキシコシティオリンピック(銅メダル)
1970年 ワールドカップメキシコ大会予選
試合数 [編集]
国際Aマッチ 39試合 12得点(1958-1969)

日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
年 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1957 0 0 3 0 3 0
1958 2 1 2 1 4 2
1959 8 4 7 3 15 7
1960 1 0 12 1 13 1
1961 6 1 4 1 10 2
1962 3 0 4 2 7 2
1963 5 3 8 2 13 5
1964 1 0 7 0 8 0
1965 3 0 10 5 13 5
1966 2 1 6 2 8 3
1967 3 1 5 1 8 2
1968 2 0 15 2 17 2
1969 3 1 9 1 12 2
1970 0 0 2 0 2 0
通算 39 12 93 21 132 33
得点数 [編集]
# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1958年12月28日 マラヤ連邦、クアラルンプール マラヤ連邦 2-6 敗戦 親善試合
2 1959年1月4日 マラヤ連邦、ペナン マラヤ連邦 3-1 勝利 親善試合
3 1959年1月10日 シンガポール シンガポール 4-3 勝利 親善試合
4 1959年1月11日 シンガポール シンガポール 2-3 敗戦 親善試合
5 1959年8月31日 マラヤ連邦、クアラルンプール 香港 1-1 引分 ムルデカ大会
6 1961年8月6日 マラヤ連邦、クアラルンプール インド 3-1 勝利 ムルデカ大会
7 1963年8月8日 マレーシア、クアラルンプール マレーシア 4-3 勝利 ムルデカ大会
8 1963年8月10日 マレーシア、クアラルンプール タイ 4-1 勝利 ムルデカ大会
9 1963年8月12日 マレーシア、クアラルンプール 南ベトナム 5-1 勝利 ムルデカ大会
10 1966年12月16日 タイ、バンコク シンガポール 5-1 勝利 アジア競技大会
11 1967年9月27日 日本、東京 フィリピン 15-0 勝利 メキシコ五輪予選
12 1969年10月10日 大韓民国、ソウル オーストラリア 1-3 敗戦 1970 FIFAワールドカップ予選
指導経歴 [編集]

1969年 - 1975年:八幡製鉄/新日本製鐵 監督
1979年:日本代表 コーチ
1980年:日本代表 監督
1984年 - ?:立教大学 監督
監督成績 [編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1969 JSL 八幡 3位 14 15 5 5 4 - 準々決勝
1970 JSL 新日鐵 6位 14 13 5 3 6 - 資格なし
1971 JSL 新日鐵 3位 14 18 8 2 4 - 準決勝
1972 JSL1部 新日鐵 6位 14 12 4 4 6 - 準々決勝
1973 JSL1部 新日鐵 6位 18 16 7 2 9 準決勝 準々決勝
1974 JSL1部 新日鐵 5位 18 19 8 3 7 - 3回戦
1975 JSL1部 新日鐵 4位 18 21 9 3 6 - 準々決勝
【2010/11/18 22:19 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
呂比須ワグナー
呂比須 ワグナー(ロペス ワグナー、LOPES Wagner, 1969年1月29日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、ブラジルパウリスタFCの監督。1997年に日本へ帰化した。ワグナーは英語読みの表記で、ブラジルポルトガル語発音に準ずるとヴァギネルとなる。
目次 [非表示]
1 来歴
2 日本代表
3 代表歴
4 成績
5 所属クラブ
6 個人成績
7 指導歴
8 著書
9 外部リンク
来歴 [編集]

サンパウロ州フランカ市で8人兄弟の末っ子として生まれる。10歳の頃から学業の傍ら兄が経営する靴工場で働き、週末には地元のサッカークラブ、インテルナシオナルFCで練習する。
1986年にサンパウロFCとプロ契約を結ぶも出場機会に恵まれずにいたロペスは、元ブラジル代表のオスカーに誘われ1987年に日本に渡り、日産自動車サッカー部に加入し、3年間所属後、日立に移籍する。
移籍後の日立・柏レイソルでは、1992年にジャパンフットボールリーグ(JFL)の得点王となり、ベストイレブンに選ばれる。翌1993年もベストイレブンと得点ランク2位となる。1993年に世界的スーパースターのカレカが加入、元ブラジル代表のネルシーニョとともに外国人枠の2つを占め、残りの1枠を他の外国人選手と争う。1994年に元ブラジル代表のミューレルが加入することが決まり、解雇される。
1994年、本田技研工業に移籍する。1996年にはクラブは初のジャパンフットボールリーグ優勝し、得点王となる。
1997年、Jリーグのベルマーレ平塚へと移籍。9月に日本国籍を取得すると、名前をそれまでのワグネル・ロペスから呂比須ワグナーに改め、直後に日本代表に選出される。1999年に名古屋グランパスエイトに移籍、その後FC東京、アビスパ福岡に所属し、2002年に現役引退。12月8日に博多の森球技場で行われた天皇杯2回戦(栃木SC戦)が最後の公式戦出場となった。
「日本が大好きだから、日本サッカーの役に立てる仕事をしたい」と述べていたが、引退後、パウリスタFCの監督を務める。
日本代表 [編集]

1997年9月12日に帰化すると、その16日後の、ワールドカップフランス大会予選の対韓国戦に出場する。
同年10月11日のウズベキスタン戦、後半44分、井原正巳のパスを頭で合わせてゴールし、代表初ゴールとなる。続く10月26日の国立競技場でのUAE戦では前半開始早々にカズから受けたボールをリフティングで相手をかわし、そのままボレーして得点する。続く11月1日のアウェーでの日韓戦でも得点し、3試合連続で得点する。イランとの第3代表決定戦の直前に母ルジアが病死するが、イラン戦にも途中出場する。
1998年に行われた本大会では途中出場ながら3試合に出場。対ジャマイカ戦では中山雅史のワールドカップにおける日本人初ゴールをアシストする。
代表歴 [編集]

1998年 FIFAワールドカップフランス大会
国際Aマッチ 20試合 5得点(1997-1999)

日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1997 6 3
1998 7 0
1999 7 2
通算 20 5
成績 [編集]

1992年、1995年、1996年と3度のジャパンフットボールリーグ得点王となる。1997年Jリーグ優秀選手賞。ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)在籍時の2年間とも、チーム得点王になる。
2002年10月19日、博多の森球技場でのヴァンフォーレ甲府戦のゴールで、日本リーグ・JFL・Jリーグの合計得点が釜本邦茂の202ゴールを超えて203ゴールとなった。後日、福岡のローカルTV番組が、203ゴール目を決めたボールを贈る。
所属クラブ [編集]

1985年 - 1987年 サンパウロFC(ブラジル)
1987年 - 1990年 日産自動車(日本)
1990年 - 1994年 日立製作所/柏レイソル(日本)
1995年 - 1996年 本田技研(日本)
1997年 - 1998年 ベルマーレ平塚(日本)
1999年 - 2000年 名古屋グランパスエイト(日本)
2001年 FC東京(日本)
2001年 - 2002年 アビスパ福岡(日本)
【2010/11/18 22:19 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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