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渡辺 正(わたなべ まさし、1936年1月11日 - 1995年)は、日本の元サッカー選手、および指導者。選手時代のポジションはフォワード。サッカー日本代表選手として出場したメキシコシティオリンピックでは、今で言うスーパーサブ役を担い、銅メダル獲得に貢献した。晩年は日本代表監督も務めた。広島県広島市出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 逸話 3 所属クラブ 4 個人成績 5 代表歴 5.1 出場大会 5.2 試合数 5.3 得点数 6 指導経歴 7 監督成績 8 脚注 9 参考文献 10 関連項目 11 外部リンク 来歴 [編集] 実家は寺。子供の頃、原爆で焼け野原になった町で、壊れた墓石運びの手伝いをさせられ、これが足腰の鍛錬になったという。広島市立基町高等学校から、同郷の名将・寺西忠成が監督を務めていた八幡製鉄サッカー部(後の新日本製鐵八幡)に入部した。当時の八幡製鉄は広島出身者が多数を占め、荒っぽい広島弁が飛び交う「野武士軍団」だったが、中でも渡辺の個性は出色で、酒豪で連夜ネオン街に繰り出し、泥靴で寝床に入ることもしばしばだったと言う。また負けず嫌いな性格から一度八幡製鉄を辞め、1958年に立教大学に進学。卒業後の1962年に再び八幡製鉄に入った。1960年前後の八幡の黄金期に中心選手として活躍。その熱血漢振りから「闘将」と呼ばれた。 1960年、ローマオリンピック予選から全日本に選ばれる。1964年、東京オリンピック、1968年、メキシコシティオリンピック連続出場。メキシコでは、松本育夫と右ウイングの位置を分け合い、右サイドを高速で駆け上がりゴールを奪った。この大会6試合、日本の9得点のうち7得点が釜本で、あとの2得点は渡辺が挙げたものである。特に1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、1点リードされ敗色濃厚の後半終了間近に投入されると、杉山隆一の左からのクロスを釜本邦茂が相手選手3人に競り勝って頭で折り返し、ゴール前に詰めた渡辺がダイレクトボレーで決めた。この同点弾がなければ、銅メダルもなかった。異常な才能、或いはカンで、はるかに前からボールの落ち所を正確に予想し、渡辺に魅せられているかのように目の前にボールが落ちてきたという。代表通算39試合出場、Aマッチ通算12得点は歴代13位の記録。 晩年はプレーの切れ味こそ衰えたものの、ゴールへの執念はなお健在で、ゴール前のスペシャリストと呼ばれた。 1969年には八幡製鉄のプレイングマネージャーとなり、選手引退後も1975年まで監督を続けた。また1973年からは日本代表ユースコーチを兼ね、1977年、日本代表コーチ、1980年、日本代表監督を歴任し、木村和司、風間八宏、田嶋幸三、西村昭宏など若き才能を多く抜擢した。 しかし代表監督就任から5ヶ月でクモ膜下出血で倒れ、左半身不随となる。代表監督が任期中に倒れたのは渡辺とオシムだけ。この時は急遽、川淵三郎が後任となった。懸命なリハビリの末、半年後には新日鐵東京本社で業務に復帰するまで回復した。1984年、母校・立教大学サッカー部の監督に就任。1987年からは日本サッカー協会へ出向した。 1995年没。2006年、日本サッカー殿堂入り。 逸話 [編集] 代表時代に「そうじゃけんのう」という広島弁をやたら使うので、デットマール・クラマーが覚え、ミーティングの時に選手が緊張すると、クラマーはしばしばこの言葉を使いみんなを笑わせた。 明治大学在学中の木村和司を日本代表の右ウイングに抜擢した。木村は非常にコントロールの難しい選手で練習嫌い、わがままという評判があり、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日鐵入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産自動車に入部した[1]。このことはその後の日本リーグの勢力地図を大きく変えたといわれている。 気性の激しい選手として知られたが、松本育夫がヤマハの「つま恋ガス爆発事故」で瀕死の重傷を負い長期入院を強いられたときには、仕事の帰りに毎日見舞いに行き松本を励ました。 所属クラブ [編集] 1953年 - 1958年:八幡製鉄 1958年 - 1962年:立教大学 1962年 - 1971年:八幡製鉄 通算79試合出場 19得点 個人成績 [編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算 1965 八幡 JSL - 1966 八幡 JSL - 1967 八幡 JSL - 1968 八幡 JSL - 1969 八幡 JSL - 1970 八幡 JSL - 1971 八幡 JSL - 通算 日本 JSL 79 19 - 総通算 79 19 - 代表歴 [編集] 出場大会 [編集] ローマオリンピック予選 1962年 ワールドカップチリ大会予選 アジア競技大会(1962,1966) 東京オリンピック(ベスト8) メキシコシティオリンピック(銅メダル) 1970年 ワールドカップメキシコ大会予選 試合数 [編集] 国際Aマッチ 39試合 12得点(1958-1969) 日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算 年 出場 得点 出場 得点 出場 得点 1957 0 0 3 0 3 0 1958 2 1 2 1 4 2 1959 8 4 7 3 15 7 1960 1 0 12 1 13 1 1961 6 1 4 1 10 2 1962 3 0 4 2 7 2 1963 5 3 8 2 13 5 1964 1 0 7 0 8 0 1965 3 0 10 5 13 5 1966 2 1 6 2 8 3 1967 3 1 5 1 8 2 1968 2 0 15 2 17 2 1969 3 1 9 1 12 2 1970 0 0 2 0 2 0 通算 39 12 93 21 132 33 得点数 [編集] # 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要 1 1958年12月28日 マラヤ連邦、クアラルンプール マラヤ連邦 2-6 敗戦 親善試合 2 1959年1月4日 マラヤ連邦、ペナン マラヤ連邦 3-1 勝利 親善試合 3 1959年1月10日 シンガポール シンガポール 4-3 勝利 親善試合 4 1959年1月11日 シンガポール シンガポール 2-3 敗戦 親善試合 5 1959年8月31日 マラヤ連邦、クアラルンプール 香港 1-1 引分 ムルデカ大会 6 1961年8月6日 マラヤ連邦、クアラルンプール インド 3-1 勝利 ムルデカ大会 7 1963年8月8日 マレーシア、クアラルンプール マレーシア 4-3 勝利 ムルデカ大会 8 1963年8月10日 マレーシア、クアラルンプール タイ 4-1 勝利 ムルデカ大会 9 1963年8月12日 マレーシア、クアラルンプール 南ベトナム 5-1 勝利 ムルデカ大会 10 1966年12月16日 タイ、バンコク シンガポール 5-1 勝利 アジア競技大会 11 1967年9月27日 日本、東京 フィリピン 15-0 勝利 メキシコ五輪予選 12 1969年10月10日 大韓民国、ソウル オーストラリア 1-3 敗戦 1970 FIFAワールドカップ予選 指導経歴 [編集] 1969年 - 1975年:八幡製鉄/新日本製鐵 監督 1979年:日本代表 コーチ 1980年:日本代表 監督 1984年 - ?:立教大学 監督 監督成績 [編集] 年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦 順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯 1969 JSL 八幡 3位 14 15 5 5 4 - 準々決勝 1970 JSL 新日鐵 6位 14 13 5 3 6 - 資格なし 1971 JSL 新日鐵 3位 14 18 8 2 4 - 準決勝 1972 JSL1部 新日鐵 6位 14 12 4 4 6 - 準々決勝 1973 JSL1部 新日鐵 6位 18 16 7 2 9 準決勝 準々決勝 1974 JSL1部 新日鐵 5位 18 19 8 3 7 - 3回戦 1975 JSL1部 新日鐵 4位 18 21 9 3 6 - 準々決勝 PR |
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