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ロベルト・カルロス・ダ・シウバ(Roberto Carlos da Silva、1973年4月10日 - )はブラジル・サンパウロ出身のサッカー選手。元同国代表。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィルダー(ウイングバック)。
歴代最高の左サイドバックと評される一人。1996年から2007年までスペインのレアル・マドリードに所属し、「銀河系軍団」と称されるスタープレーヤー軍団の一員として、黄金期を支えた。日本では「ロベカル」の愛称で親しまれている。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 クラブ 1.2 代表 2 エピソード 3 所属クラブ 4 個人成績 5 獲得タイトル 5.1 ブラジル代表 5.2 クラブ 5.3 個人 6 脚注 経歴 [編集] クラブ [編集] 地元のクラブであるウニオン・サンジョアンでキャリアをスタートさせ、1993年にパルメイラスへ移籍。直ちに頭角を現しジーニョやエバイールらと共に1993年、1994年のブラジル全国選手権連覇に貢献した。この活躍によって1995年にイタリアのインテルへ移籍した。インテルには1年間在籍したが、監督のロイ・ホジソンは彼を左ウイングの位置で起用する事を望み、左サイドバックでのプレーを望むロベルト・カルロスにとっては不本意なシーズンとなった。 翌1996年にスペインのレアル・マドリードへ移籍。11シーズン在籍し、通算512試合出場65得点を記録、リーグ通算370試合出場46得点を左サイドバックのポジションで記録した。10年近くの長きに渡り不動のレギュラーとして君臨し、非常に攻撃的なプレーで果敢にオーバーラップを仕掛け、左サイドからの高速グラウンダークロスにラウールがニアで飛び込む得点パターンは相手チームに脅威を与え、多くの得点を記録し数々のタイトル獲得に貢献した。クラブでは慢性的にサイドバックの層が手薄でありバックアップを務める選手が未熟だったこともあって、ロベルト・カルロスが欠場せざるを得ない試合は前述のような攻撃もなくなって攻撃力が大幅に低下してしまうことになり、その存在価値はクラブにとってとても大きなものであった。2003年にイエロ、マケレレという守備的な選手が移籍し、チームのバランスが崩壊してからは彼の評価は無難なものになったが、それでも攻撃面では高いパフォーマンスを維持し続けた。2005年、ブラジル人フォワード・ロビーニョの入団後はクラブのEU外国籍の選手枠を空ける為にスペイン国籍を取得した。更にアルフレッド・ディ・ステファノを抜いてレアル・マドリードで最も多くの試合に出場した外国人選手となった。 2006年のドイツ・ワールドカップ終了後にブラジル代表を引退。以降はクラブチームでの活動に専念している。2007-08シーズンからは同郷のジーコが監督を務めていたトルコのフェネルバフチェへ移籍し2年契約を結んだ。 2010年1月、ブラジルのコリンチャンスへ移籍し2年契約を結んだ。 代表 [編集] ブラジル代表には1992年のデビュー以来、125試合出場24得点を記録した。1998 FIFAワールドカップフランス大会では7試合全試合に出場した。2002 FIFAワールドカップ南米予選ではパラグアイ代表のGKホセ・ルイス・チラベルトから顔に唾を吐きかけられた。チラベルトはこの件で国際サッカー連盟から3試合出場停止処分を受けたが、この行為に至った経緯に人種差別発言があったことを示していた。本大会ではグループリーグのコスタリカ戦を除く6試合に出場。グループリーグの中国戦ではフリーキックから得点を決める等、ブラジルの5度目の世界制覇に貢献した(当時のフォーメーションは 3-5-2 でポジションはウイングバック)。 2006年のFIFAワールドカップドイツ大会の準々決勝のフランス戦の敗退を最後に代表から引退した。しかし、コリンチャンスへ移籍した2010年1月、ヘジ・グローボで2010年ワールドカップへの出場希望を述べた[1]。 エピソード [編集] この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2010年10月に貼り付けられました。 2005年6月24日、ブラジル南東部のベロオリゾンテにて彼の乗った車が銃を持った2人組に襲われるというトラブルに見舞われた。その時彼は偶然にも携帯電話にて生放送のラジオ番組に出演中であり、彼の悲鳴や強盗が窓を叩く音が生中継された。 現役引退後は競走馬の育成をするのが夢だという。現在の副業はクラレンス・セードルフと共同でバイクチームの運営である。 プライベートでは福祉活動にも精力的で、地元ブラジルのサンパウロ州アララス市には彼の寄付で建てられた保育園がある。 少年時代、家から学校までの距離が十数キロあったらしいが、毎日走って通学していたという。 レアル・マドリード時代の2005-06シーズンのフィットネステストで、当時32歳にして持久走のタイムがチームトップであった。ちなみに100m走も10秒9と唯一の10秒台でトップ。 1995年、アンブロカップ95で対戦した日本代表GK小島伸幸は、正面に飛んできたボールを両拳でガードして、左手小指を骨折している。 蹴ったボールに時速165キロの威力を与えるキック力を生み出すために「自分の足のサイズより小さいスパイクを履いている」と日本のTV番組で話している。 短距離、中距離、長距離のどの走力においてもトップレベルであることから、一人のスプリンターとして「究極のアスリート」と呼ばれることがある。 DFにも関わらず攻撃的な姿勢は、同僚のラウル・ゴンサレスに「DFの仮面を被ったFWだ」と評された。 フェネルバフチェで現役を終えるつもりだと発言。また、マドリード退団の際には非常に名残惜しそうにしており、その後もレアル・マドリードが望むのであれば無給で復帰すると話した[2]。 am/pm主催の少年サッカー教室を2年連続でドタキャンし、代役としてかりだされたFC東京(当時)の加地亮に「ロベカルじゃなくてごめんな」という名言を吐かせた。 PR |
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